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ー カール・マルクス&フリードリヒ・エンゲルス『共産党宣言』
— Karl Marx and Friedrich Engels, The Communist Manifesto (1848)
おはよう、セカイ。
それは、『資本主義』だ。
現代に生きる人々は、ほぼ例外なく、生まれながらにしてこの宗教を信仰している。誰から教わったわけでもなく、成長するにつれてお金の存在を知る。そして、誰もがなんとなくその使い方を覚える。本当に理解しているかは怪しいが、お金を使ったことがない人はいないはずだ。
この資本主義という宗教は、実に奇妙な概念だ。
生まれてからずっとこのゲームに参加させられているにもかかわらず、そのルールを明確に理解している者は少ない。感覚で参加し、感情で振り回される。
それほど理解しやすく、本質がわかりにくい宗教は他にない。
ただ一つ、確実に言えることは——この資本主義のシステムによって世界が動いている、という事実だ。
人類の営みはこのルールの上に構築され、効率と競争と欲望に突き動かされて、社会は進化してきた。
例え身分が上がったとしても、NetflixもYouTubeもない江戸時代には、きっと戻りたくないと思う人が多いに違いない。
一部の人間は、シャンパンタワーに札束を注ぎ込み、まるでそれが正義かのように金を燃やす。一方で、同じ街の片隅では、明日の生活どころか「今日、何を食べようか」と途方に暮れる人々がいる。
この格差は単なる「運の違い」ではなく、構造的に再生産されるループの中にある。つまり、富める者は加速度的に富み、貧する者は静かに、だが確実に追い詰められていく。
お金が情報を生み、情報が注目を生み、注目がさらなる価値を生む。そうした“資本と可視性の相互強化”によって、上に立つ者はより高く昇る。一方で、底辺にいる者の声や存在は、ネットワークのノイズとしてかき消され、可視化されることすらない。
格差は「距離」ではなく、「別の世界に住んでいる感覚」へと変わっていく。
それは、希望ではなく錯覚された保証を担保にした欲望の膨張だ。
我々の経済は、借金によって支えられている。
見えざる「未来の利益」を抵当に、今日の欲望は増幅され、社会は加速する。
株価は青天井に膨らみ、土地はすでに住むためのものではなく、数字でしか測れない“投資商品”に変わった。だが、果たしてそれらは本当に価値があるのか?
そこに人の暮らしはあるのか?温度や手触りはあるのか?
それとも、ただの空虚な数値のバブルに過ぎないのか。
この構造の末路にあるものは、誰も知らない。
成長は永遠ではないと知りながら、私たちはあたかも**「永続する幻想」**を前提に日々を生きている。
その結果として、富はますます一部に集中し、社会全体は借金という見えない鎖に縛られていく。
「今さえ良ければいい」という態度の集積が、
やがて「誰かが後始末を引き受けるだろう」という無責任な倫理を育てていく。市場の期待は、気体のようにあやふやで、どこかに飛んでいってしまう。
いつ、その“支払いの時”はやってくるのか?
あるいは私たち自身が、すでにそのツケを払い始めているのではないか。
崩れゆく都市、壊れた医療制度、消えた年金、孤独な労働者。
それが、未来への過剰投資の“副作用”としての現実ではないのか。
最初から返済する気などなかったのだろうとさえ思える。
『経済的ディストピア』は、資本主義が生まれた瞬間に”すでに”始まっていたのかもしれない。
さよなら、セカイ。