戦いを終わらせるのは暴力か?

『我々は戦争の苦しみを短縮するために、それを使用した。』

ハリー・S・トルーマン

“We have used it in order to shorten the agony of war”
― Harry S. Truman, U.S. President (1945)

おはよう、セカイ。

人間は大切なものを守るためなら、悪魔にだってなれる

子を守る母親。家族を守る父親。
大切なものを守れるのであれば、命だって投げ出す。
そういう人は、案外少なくないのかもしれない。

それが「世界の威信をかけた戦い」であれば、なおさらだ。

日の丸を背負った国が敗れてから80年。敗れた側の仁義として、責務を全うしてきたのだろう。
電撃で戦いを起こし、負けたのだから、それなりの責務を負わなければならない。
悲惨なことが二度と起こらぬよう、先人たちは工夫してきた歴史がある。
苦しくも、大いなる権威に従わなければならなかった過去がある。

戦勝国側にも、言い分があった。

自国を守るため、同じことを二度と起こさせないように、敗戦国をコントロールする。
それは、まるで人形を扱うように──敗戦国の大衆の心情までも、操ろうとした。

そして、一般大衆は見事なまでに先人の積み重ねを忘れる。平和ボケし、思考を奪われていると言っても過言ではない。いつまで続ければ、我々は許されるのだろうか。
いや、そもそもそのことに気づいている人は、そう多くはない。

人口の多さは、構造を変革する一つの要素だ。

かつて小さな力しか持たなかった国が、経済的・軍事的に力をつけ、世界の強国へと変貌を遂げている。
かつて見下していた存在が、今や世界の覇権を脅かしている。
いわゆる“有事”は現実味を帯び、世界の縮図は書き換えられようとしている。
猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
人権革命を成し遂げた国が落ち、産業革命を迎えた国が衰退し、かつての戦勝国が、静かに地盤を失いつつある。

力をつけた国は、隣国を力で制圧していく未来を選ぶ。


かつてプロイセンの名を冠した国が、列強に反発し、国土を広げていったように。一方で、力を持たない国は、強者にすり寄っていく。
中学時代、一軍に歯が立たなかった二軍は、否応なく忖度し、序列が変われば、忖度する相手も変えていった。
それが、国という単位で起こっているだけだ。


強者の戦いに巻き込まれた、我々は、これからどう進むのか。
権威と支配を体現したような国に巻き込まれた先に、どんな未来が待っているのか。

人がスコア化される国。町中に監視カメラが設置された国。
そんな国に忖度するということは、我々も近い将来、同じ未来を受け入れるということだ。

そんな世界は、やっぱりゴメンである。

我々は、いつまで負けているフリを続ければいいのだろうか。


本当に、我々には力がない?
優しさや良心を持って生きるこの国が、それを持たない人々に従うなんて、正しい結末とは到底思えない。


中学時代、一軍にも臆せず口をきいていたやつがいる。
そいつは、決して力が強かったわけではない。
それほどかっこいいわけでもなかった。
ただただ、優しかった。

他のやつと、何が違ったか?
ただ、強い芯を持っていただけだ。


道徳感がある国だ。

そんな国だから、世界を変えていけるに決まっている。

それを強く胸に抱いて、前を向いて進んでいこう。

さよなら、セカイ。

淺野 弘久
淺野 弘久
記事本文: 9

返信を残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です