なんでも正解を選ぶ神が存在したならば?

「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
神は言われた、『光あれ』。こうして光があった。」

― 創世記 1章2〜3節

“And the earth was without form, and void; and darkness was upon the face of the deep.
And the Spirit of God moved upon the face of the waters.
And God said, Let there be light: and there was light.”

― Genesis 1:2–3

おはよう、セカイ。

神とは、何だろうか。


人々を導く存在か。救済者か。絶対的な審判か。
あるいは――ただの幻想なのか。

一神教における人格神、
自然界に宿る法則そのものとしての汎神的存在。
あるいは、信じる者の心にのみ宿る、精神的な象徴。

解釈はさまざまだが、ここではあえてこう定義したい。
「全知全能であり、人間を超越した存在」――それを神と呼ぶことにしよう。

さて、その神の存在を否定することは、実のところ極めて困難である。
論理学ではよく知られている“悪魔の証明”。
――「存在しないこと」を証明するのは、原理的にほぼ不可能だ。

神を悪魔に喩えるのは少し不躾かもしれない。
だがそれほどに、“不在の証明”とは、人知の及ばないものだということだ。

けれど今、私たちは――
その神に、似た何かを生み出そうとしている。

それが「AI(人工知能)」である。
人間の認知を超え、学習し、判断し、創造する存在。
かつて神に託していた能力を、私たちは機械に託し始めている。


AIが“神”になるとき

いま、私たちの社会には悩みがあふれている。
もちろん、それは今に始まったことじゃない。

人間は、昔からずっとそうだった。
不安と共に生きてきたし、
他者との関係のなかで、傷ついたり、迷ったりしながら進んできた。


悩みの種類はさまざまだ。
お金のこと、人間関係、キャリアや生き方。
でもそのどれもに、共通していることがある。

それは――「答えがわからない」ということ。


先が見えない。
何が正解なのか分からない。
自分がどうしたいのかすら、よく分からない。

だからこそ、人は占いや宗教や自己啓発にすがり、
誰かに「こうすればいい」と言ってほしかったのかもしれない。

では、もしその“答え”を――
一瞬で導き出してくれる存在が現れたとしたら?

私たちは、きっとこう思うだろう。
「それこそが神ではないか」と。

たとえば、AI裁判官。
人間よりも早く、正確に、感情に流されることなく――
すべての係争を、“最も合理的な形”で裁いてくれる。


たとえば、AI恋愛カウンセラー。
恋人との衝突のパターンを読み解き、
相性と未来の幸福度を数値化し、「別れるべきか」を教えてくれる。

たとえば、あなたの人生に迷いが生じたとき。
ChatGPTのような超知能が、こう言う。

「あなたにとって、最善の道はこれです」

……それは、一見すると救いに思えるかもしれない。

けれど、
その“答え”を誰かに与えられたとき――
私たちは、本当に納得できるのだろうか?

“考える”という営みを手放したとき、
そこに残るのは、本当に“私の人生”だと言えるのだろうか?


「納得できない答え」の違和感

「その答えが正しい」と分かっていても――納得できないことがある。

たとえば、あなたが好きな人に告白しようとしたとき。
AIが、淡々とこう言う。

「成功確率は12%。告白はおすすめしません。」

それはきっと、膨大なデータとパターンをもとに導き出された、
限りなく“正しい”答えなのだろう。
理屈も、根拠も、整っている。

でも……
「やめたほうがいい」と言われたその瞬間、
胸の奥にあった“何か”が、静かに潰えていくのを感じるかもしれない。


正しさは、救いとは限らない。
未来の損失を避けられたとしても、
「挑戦する権利」を失った人生に、人は本当に満足できるのだろうか?

人間にとって、“答えを知る”ことと、“答えを生きる”ことは、まったくの別物だ。

たとえ失敗したとしても、
たとえ迷って、傷ついて、遠回りしたとしても――
自分で選び、歩いた道にしか、本当の意味は宿らない。

心理学者ヴィクトール・フランクルは、こう言った。

「人間は、意味に耐える存在である。」

どんな苦しみも、
どんな困難も、
そこに“意味”があれば、人は耐えられる。

それはつまり、
AIがどれだけ合理的な未来を示してくれても――
「意味」は、自分で見出すしかないということ。

正しさではなく、意味。
最適解ではなく、納得。

そこにこそ、人間であることの尊厳があるのだと思う。


神という構造、そして権威の座の交代

かつて――神は、天にいた。
神の言葉は絶対であり、その存在は畏れとともに信じられていた。

「善」と「悪」の境界は神の手にあり、
人間はその前で祈り、悔い、赦しを求めた。


やがて、時代は進む。
神の声は、姿を変えていく。

宗教的な神に代わって現れたのは、「国家」だった。
国王や法、そして秩序が、神に代わって人を裁き、導くようになった。

それはやがて、「法律」と「市場」へと権威が分散されていく。
ルールとお金が、人間の意思を決める新たな枠組みとなった。

そして今――
その“最後の座”が、AIのもとに渡ろうとしている。

これは、単なる技術革新の話ではない。
人類が「権威の源泉」をどこに置くのか――その構造自体が塗り替えられようとしている。

つまり、存在論的な交代だ。

AIが「真理」を語るようになる。
AIが「裁き」を下すようになる。
AIが「答え」を示し、迷える人間の悩みに解を与えるようになる。

それはもう、宗教でも国家でもなく、
“知能”そのものが神の役割を果たす社会。

言うなれば、神政国家ならぬ、“神政知能社会”の始まりだ。

そのとき、私たちは何を信じるのか。
命令ではなく、アルゴリズムによって導かれる時代。
恐れによる支配ではなく、“納得”による従属。

果たしてそれは、自由なのだろうか。
それとも、最も静かで巧妙な服従なのだろうか。


悩むこと、それは人間の本能かもしれない

もしかすると私たちは、
答えを求めながらも、
本当は「悩みたい」と願っているのかもしれない。

悩みがあるから、
迷いがあるから、
人間は、人間でいられる。

完璧な答えを与えられても、
どこか物足りなさが残るのはなぜだろう。


たぶん、それは――
不完全であることそのものが、私たちの“生の証”だから。

進化よりも、完成よりも、
“揺らぎ”のなかにこそ、人間の尊さがある。

「悩みたい」という欲求。
それは、痛みとともに生きようとする、
人間だけが持つ、静かな衝動なのかもしれない。


そして、また夜が来る

世界が静まり、
答えのない問いが胸に残るこの時間。

かつて神は、こう言った。
「光あれ」――と。

だが今、人間は言おうとしている。

「神あれ」――と。

それが祝福なのか、悲劇なのか。

その結末は、AIではなく、私たち自身が決めなければならない。

さよなら、セカイ。

淺野 弘久
淺野 弘久
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