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「不思議な逆説だが、私がありのままの自分を受け入れたとき、私は変わることができる。」
“The curious paradox is that when I accept myself just as I am, then I can change.”
カール・ロジャーズ
おはよう、セカイ。
そんなふうに思ったこと、ありませんか?
たとえば、
・傷つきやすい自分がいやだ
・すぐに人の顔色をうかがってしまう
・冷たく見られるのが怖いけど、優しくできない
私は、あります。
そして何度も、「こんな性格、変えられたらな」と思ったこともあります。
でも、そもそも――性格って、変えられるものなのでしょうか?
それとも、変えることが難しいものなのでしょうか?
もしかしたら、すでに僕たちの性格は、知らぬ間に変えられているのかもしれません。
SNSのアルゴリズムに、上司の言葉に、親の価値観に。。
少しSFの話も交えながら、「性格って何か?」を問い直してみたいと思います。
さて、性格って、そもそも何でしょうか。
よく「私はこういう性格だから…」なんて言いますよね。
でも、「性格」って具体的に何を指しているんでしょうか。
心理学では、性格はおおまかに遺伝要因と環境要因の2つから成り立っていると言われます。
つまり、「生まれつきの気質」と「育ってきた環境」が性格を形作る、というわけです。
たとえば、同じ兄弟でもまったく性格が違うこと、よくありますよね。
それは、同じ家庭で育ったとしても、微妙に違う「環境」や「経験」が、それぞれに積み重なっていくから。
また、心理学の理論の中では「ビッグファイブ」というモデルが有名です。
外向性、協調性、誠実性、神経症傾向、開放性。
これら5つの因子の強弱で、性格を分類しようとする試みです。
でも…そうやって分類したところで、僕たちはやっぱり思うわけです。
「それって本当に“自分”なんだろうか?」って。
毎日の気分でコロコロ変わる性格。
ある場所では優しいのに、別の場所では攻撃的になる自分。
いったい、どれが本当の自分なんでしょう?
もしかすると、**性格とは「変わらないもの」ではなく、「そのときその場所で、反応しているもの」**かもしれません。
そう考えると、「性格操作」なんて言葉も、ちょっと違う意味に見えてきませんか?
「生きやすい性格」って、なんでしょうか。
明るくて、外向的で、協調性があって、空気が読めて、素直で、ポジティブ。
たぶん、今の社会では、そういう性格が“望ましい”とされていますよね。
一方で、
・人付き合いが苦手
・すぐに落ち込む
・自己主張がうまくできない
・相手の気持ちを気にしすぎる
そういう性格は、しばしば「生きづらい」と言われてしまう。
でも、それって本当に“性格”のせいなんでしょうか。
それとも、“社会の構造”が、ある性格を優遇しているだけなのかもしれません。
たとえば、アメリカでは自己主張の強さが評価されます。
けれど、日本では「空気を読むこと」が美徳とされる。
同じ人でも、生きる場所によって「生きやすさ」はまるで違うんです。
だから僕は思うんです。
性格が生きづらいんじゃない。社会が多様な性格に優しくないだけかもしれない。と。
本当は、内向的だからこそ気づけることがあるし、
傷つきやすいからこそ、誰かを思いやれる優しさもある。
でも、「こういう性格じゃないとだめ」と刷り込まれていくうちに、
自分の性格を責めてしまう人がいる。
だからこそ、ここで一度立ち止まって問い直したいんです。
“本当に変えるべきは、性格なんだろうか?”
それとも、自分を受け入れてくれる環境や人間関係なのかもしれない。
そう思ったとき、性格に優劣をつけること自体が、ちょっと馬鹿らしく思えてくるかもしれません。
「この子は、外交的でリーダー気質にしたい」
「繊細すぎると苦労するから、神経の閾値を少しだけ上げましょう」
――そんなふうに、性格を遺伝子レベルで“設計する”時代が来たら、あなたはどう思いますか?
これは空想の話ではありません。
実際に、2018年に中国でゲノム編集ベビーが誕生したという衝撃的な事件がありました。
HIV耐性を持つよう遺伝子を改変された双子。倫理的な批判を受け、その研究者は刑事罰を受けましたが、
その事例は、“未来の扉がすでに少し開いてしまった”ことを世界に示しました。
今のところ、性格のような「複雑な特徴」は遺伝子一つで決まるものではないとされています。
しかし研究は進んでいて、「遺伝子の組み合わせ」と「発達初期の刺激」によって性格傾向がある程度予測できるようになってきている。
もし親が、「この子が幸せになれるように」と願って性格を編集する未来がきたとしたら、
それは果たして“愛”なんでしょうか?
それとも、“支配”なんでしょうか?
もちろん、遺伝的に「攻撃性を抑える」「うつ病リスクを下げる」などが可能になれば、それは医学的には喜ばしいことかもしれません。
でも同時に、こうも考えられます。
「生きづらさ」を排除した先に残るのは、はたして“人間らしさ”なのか?
苦しむことで芽生える優しさや、恐れから生まれる慎重さも、僕たちの性格の一部。
欠点に見える部分を削ぎ落とすことで、「完成された人格」が生まれたとして、
その人は――誰にとって理想の存在なんでしょうか?
自分?
親?
社会?
…それとも、設計者?
「自分の性格は、自分で選んでいる」
本当にそうでしょうか?
実は、環境によって性格がガラッと変わってしまうことは、心理学の世界ではよく知られています。
1971年、心理学者フィリップ・ジンバルドーが行ったこの実験では、
大学生たちを「看守」と「囚人」の役に分けて、模擬刑務所で数日間過ごしてもらいました。
最初は普通の学生だった彼らが、数日後には――
看守役は暴力的になり、囚人役は無気力で萎縮し、人格までもが歪んでいったんです。
実験はあまりに危険と判断され、予定より早く中止されました。
この実験が示したのは、環境が与える役割や構造が、性格や行動に強烈な影響を与えるということ。
つまり、人は“場”によって簡単に変わってしまう。
もう少し現代的な話をするなら、SNSのタイムラインも、ある種の“洗脳装置”と言えるかもしれません。
特定の思想、特定の怒り、特定の価値観だけが繰り返し表示されるうちに、
気づかないうちに、考え方も、言葉の選び方も、性格さえも変化していく。
怖いのは、それが無自覚に進行するということ。
「私は変わってないよ」と言いながら、他者への態度や判断がいつの間にか変わっている。
そして変わった後の自分を、“本来の自分”だと思い込んでしまうこともある。
性格は、与えられた環境に適応することで成り立っている。
その柔軟さは、強さでもあり、脆さでもある。
もし今の自分に違和感があるなら――
それは「あなたが壊れている」のではなく、
あなたを変えてしまった環境のほうに、問題があるのかもしれません。
さて――
もし未来に、「性格を入れ替える」ことが技術的に可能になったとしたら、どうしますか?
USBメモリのように、
「論理的で冷静な性格」や「外交的で共感力の高い人格」みたいなファイルを選んで、
自分に“インストール”する。
昔の自分の性格はバックアップに残しつつ、いつでも切り替え可能。
まるで着替えのように、性格を選べる時代――
一見、夢のような話ですよね。
苦手だった自分を脱ぎ捨てて、
人と上手くやれる人格を手に入れられたら、どんなに楽だろうか、と。
でも、ふと考えるんです。
「それでも、その人は“自分”と言えるんだろうか?」
喜びや怒り、トラウマや癖、
そういった“過去の積み重ね”で形作られてきたのが性格だとしたら――
それを他人のものとすり替えた瞬間、自分という存在はどうなるんでしょうか?
たとえば、悲しみに鈍感な性格を選べば、失恋や喪失の痛みを感じなくてすむかもしれない。
でも、同時に誰かを深く愛することも、感じられなくなるかもしれない。
性格を都合よく取り換えられる社会が来たとき、
僕たちは「間違えた自分」をすぐ捨ててしまう未来にいるのかもしれません。
「ありのままの自分を受け入れる」という言葉が、
時代遅れのものとして笑われるかもしれない。
でも私は、こう思いたいんです。
不完全で、悩んで、遠回りしてしまうことも、
きっと自分で自分を育ててきた証なんじゃないかって。
もし性格を“簡単に変えられる時代”が来ても、
“変えないでいる強さ”もまた、大切にしたいと思うんです。
もし、自分にとって最も「合理的な性格」を選べるとしたら――
それは、どんな性格でしょうか?
きっと多くの人は、こう答えるかもしれません。
「感情に振り回されず、冷静で論理的」
「空気も読めて、人間関係もそつなくこなせる」
「失敗を恐れず、効率的に成果を出せる」
まるでAIのように最適化された人格。
じゃあ仮に、その性格を完全に“インストール”した世界を想像してみましょう。
誰も怒らず、誰も傷つかず、全員が建設的に議論し、感情の衝突は一切ない。
争いのない社会。非効率のない組織。傷つくことのない恋愛。
……それって、果たして「人間社会」と呼べるのでしょうか?
失敗するし、嫉妬もするし、矛盾に悩んで立ち止まる。
でも、そこにこそ人間の“深さ”があるんじゃないかと思うんです。
誰かを本気で想ったあまり、苦しくなる。
自分の正しさがわからなくなって、混乱する。
それらは一見「非効率」だけど、
実はその不器用さの中にしか育たないものがある。
共感とか、信頼とか、愛とか。
合理性は、人を便利にするかもしれない。
でも、人間を“美しく”するのは、いつだって矛盾と葛藤なんじゃないかと、私は思います。
性格を操作し、最適化し、整えすぎた先にある未来。
それはもしかしたら、“感情の死んだ世界”かもしれない。
完璧な性格よりも、どこかに不器用さや弱さがあるほうが、 人間としてずっと魅力的だと、私は思います。
ここまで、性格とは何か。
変えられるのか、操作されるのか、そもそも変えるべきなのか。
いろんな角度から、考えてきました。
でも、結局たどり着く問いはひとつかもしれません。
「自分って、誰なんだろう?」
性格は、変わっていく。
環境で形が変わり、他人の影響を受け、時には自分でもコントロールできない。
でも――
変化するからこそ、その中にずっと「変わらずにいる何か」がある。
それは、選び続けてきたものかもしれないし、
どうしても譲れなかった気持ちかもしれない。
喜びや痛みや、忘れられない誰かの言葉。
そういったものが、寄せ集まって、
今ここにいる“あなた”という存在を形作っている。
だからこそ、言えると思うんです。
「この性格、めんどくさいな」
「もっと強くなりたいな」
そんなふうに思ってもいい。
でも、どうか…
今のあなたを、「未完成のまま愛していい」と思ってほしい。
人は完成しなくても、生きていける。
弱さがあっても、誰かを愛することはできるし、誰かに愛されることもある。
操作される性格ではなく、
完璧な性格でもなく、
「ぐちゃぐちゃなまま、自分で選び続ける」という姿勢こそが、 きっとあなた自身のアイデンティティなのかもしれません。
それができたとき、人はきっと、誰かの性格も受け入れられるようになる。
そしてそのときこそ、他人からも、本当の意味で“自分”として愛されるのかもしれません。
さよなら、セカイ。