さて、心の声でも聞いてみようか。

『生ぎだい。私も一緒に海へ連れてって。』

–ワンピース ニコロビン

おはよう、セカイ。

自分の心に耳を傾ける

ルフィのまっすぐな叫びに、涙を流しながら応えるロビンの姿。

このシーンに、心を動かされた人も多いのではないでしょうか。

それまで、偽りの仮面を被り

自分の「本音」をずっと封じてきた彼女が、

初めて、自分自身の感情に、正直になった瞬間だったと思います。

このセリフは、ただのセリフじゃなくて、

心の奥底に閉まっていた、自分の本音だったんだと思います。

私たちも案外、この「心を取り戻す」という作業に、

すごく長い時間をかけているのかもしれません。

そもそも、心を取り戻すという作業のやり方さえ、わかっていないのかもしれません。

自分を押し殺してきたからこそ、

「本音」と向き合うことって、

本当に難しく、苦しいことだと思います。

頭で考えて、理屈で決めたこと。

ちゃんと理解して、ちゃんと納得しているつもりなのに、

どこか、心だけがついてこない。

理性が働けば働くほど、

その裏で、本音と建前との葛藤がぐるぐると渦を巻きます。

そんな経験、誰しもあるんじゃないでしょうか?

「これでいいんだ」と繰り返し唱えながら、

違和感にフタをし、閉まい込む

そうし続けた結果、

自分が何をしたいのか、何を感じているのかさえ、

わからなくなってしまうことも少なくありません。

自分探しという旅

心と向き合うには、少々時間が必要だったりします。

それから…静けさも大事です。

毎日、仕事、人間関係、ノルマに追われていると、

私たちは、つい置き去りにしてしまいます。

「自分は、いま何を感じているのか」

「本当は、どうしたいのか」

そんな根っこの部分が、まるで見えなくなっている。

だから、人は旅に出るんだと思います。

場所を変えて。時間の流れを変えて。

スマホも、慣れ親しんだ環境も、いったん手放して。

そうやってようやく、心の奥から声が聞こえてきたりします。

「このままじゃよくないかも」っていう、微かな感覚。

もちろん、“正解”じゃないかもしれません。

その小さな“違和感”が大きなヒントになってくれることもあります。

旅先で答えが見つからない。それが当たり前だと思います。

ただ「どこに向かいたくないか」という気持ちだけでも、見えてきたりする。

それって意外と、前に進むための、大きな一歩だったりするんですよね。

SNSの情報過多

スマホを開くと、誰かの言葉、誰かの写真、誰かの動画が……

まるで洪水のように、流れ込んできてしまいます。

便利になりました。いつでもどこでも、世界とつながれる。

でも、その代償に、

私たちの「脳」と「心」は、余白を失った気がします。

SNS、ニュース、ブログ、YouTube…

情報は、もう溢れるほど手に入る時代になりました。

そんな中、ふと思います。

それって本当に、「自分にとって必要な情報」なんだろうか?、と。

「安く、早く、簡単に手に入る情報」ほど、

実は誰かの“都合”で作られていることが多かったりします。

心を整えるどころか、気づかないうちに、自分の思考が少しずつ、削られていく。

気がつけば、誰かの意見ばかりが浮かんで、

自分の考えが、どこにあるのかすら分からなくなってしまう。

そんなこと、ありませんか?

誰もが過ごした幼少期

子どものころ、スマホなんて、なくたって十分に楽しかった。

ルールも、勝ち負けも、大きな意味なんて持ちませんでした。

ただ楽しいから、鬼ごっこをして。

ただ面白いから、転げ回って。

ただ夢中で、走っていました。

日が暮れるまで、意味もなく、笑いながら走り回って。

そして次の日も、また同じように遊んでいました。

そこには目的なんて、いらなかったはずです。

やりたいからやる

それだけのことで、心が満たされていました。

今思えば、あの目的のない時間こそが、

本当の豊かさだったのかもしれないと気付かされます。

目的がないと生きられない大人

ただ大人になると、世界は少しずつ、変わっていきます。

「その行為に、意味があるのか?」

「それって、結果につながるのか?」

そんな問いが、日常のそこかしこに降ってきます。

気づけば、人間関係も、お金でつながり、

合理性でつながるような関係が多くなったように思います。

“目的のない時間”は、「サボってる」と見なされて、

とにかく、効率。とにかく、生産性。

そうして私たちは、知らないうちに、

“自由な心”を差し出して、「役に立つ自分」になっていたのかもしれません。

本当は、ただ歩きたかっただけ。

本当は、ただ笑いたかっただけ。

なのかもしれないのに。

社会が押し殺す心

そうして、「正しくて」「機能する」大人が、

この社会の中で、次々とつくられていく。

でもその過程で、私たちは少しずつ、でも確実に、

意識せずして、自分の心を押し殺していったりします。

「これが、仕事だから」

「みんな、やってることだから」

そう言い聞かせて、納得した“ふり”をしながら、

心の奥に、言葉にできない不満と、

言葉にならない虚しさを、静かに抱えて生きていたりします。

その虚無は、やがて形を変えて、怒りの感情となって他者へと向かう。

知らず知らずのうちに、それがじわじわと、社会全体に広がっていく。

無数の「生きづらさ」が、

この世界を、静かに、確実に、覆い尽くしていく。

そんな感じがしています。

行為そのものが愛おしい

ただ本当は、どこかでちゃんと、わかっているはずなんです。

“ただやっているだけで、夢中になれた時間”が、

どれだけ尊くて、どれだけ大切だったかということを。

目的なんて、いらなかった。

上手にできなくても、よかった。

意味なんて、あとからついてきた。

「やりたい」という、その気持ち自体が、 もうすでに、“価値”だったんです。

やっている時間が、嬉しかった。

夢中になっている自分が、好きだった。

それだけで、充分だった。

そう思います。

情報から離れて、自分に触れる

スマホを置いて、自然に触れてみる。

風の音に耳を澄ませて、

土の匂いを感じて、 空の色を、ぼーっと眺めてみる。

人に触れてみる。 誰かの顔をちゃんと見て、 声ではなく、沈黙を共有してみる。

そして、自分に触れてみる。

「いま、自分は何を感じているのか」

「どこに、いたいのか」

「本当は、何がしたいのか」

答えなんて、なくていい。

でももし、心のどこかで 誰にも聞こえない声で叫んでいる自分がいたとしたら、

その声に、そっと、耳を傾けてみてください。

その声から始まる世界があるはずだから。

さよなら、セカイ。

淺野 弘久
淺野 弘久
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