僕らが契約書にサインするワケ。

「等価交換だ。俺の人生半分やるから、お前の人生半分くれ。」

──「ほんとバカね。半分どころか、全部あげるわよ。」

〜『鋼の錬金術師』より〜

おはよう、セカイ。

上記のセリフは、自分の大好きな漫画のセリフです。

なぜだか、この世界の本質をついていると感じてしまったんですよね。

人生を“分け合う”ことに、

なんの保証もなければ、なにも返ってこないかもしれない。

それでも、「渡したい」って、思ってしまう瞬間が、たしかにある。

それが契約なのか、約束なのか、愛なのか。

その境界線は、いつも曖昧です。

だけど、人はどこかで──

「信じる」という行為を、

制度とか、仕組みとか、何かしら

目に見える形で確認したがる生き物なんだと思うんです。

人はなぜ契約を結びたがるのか?

社会で生きるということは、誰かとつながるということ。

そして、そのつながりを「保証」するために──

契約という仕組みが生まれたんでしょうね。

労働契約、結婚契約、利用規約、売買契約…

どれも、社会との接点であり、同時に、“安心材料”でもある。

でも、ふと思うんです。

私たちは、本当に「安心」してるんでしょうか?

契約書にサインしたその瞬間に、

どこまで心から「大丈夫」と思えているんだろう。

もしかすると、その紙切れに頼っている時点で、

少しだけ、信じきれない気持ちがあるのかもしれません。

心のどこかで保証されたい人間。

「信じてるよ」って、言葉にすることはできる。

でも……心のどこかで、「保証がほしい」と思ってしまうものです。

「裏切らないって信じてるよ」

──その言葉の裏には、

「裏切られたくない」という、小さな不安が、静かに、潜んでいる。

人間の心って、ほんとうに裏腹で、

そして、とても不合理なものだと思います。

信じてるつもり。だけど、全部は預けきれない。

どこかで、自分の心がブレーキをかけてしまう。

だからきっと、

私たちは「契約」を求めるんだと思う。

相手を信じたいから、じゃない。

信じきれない自分を、安心させたいから。

何かに、すがっていたい。

そう思うのは、弱さじゃなく

人間らしさの一つなんじゃないかなとも思います。

本当に向き合わなければいけないのは?

契約って、相手と結ぶもの──

そう思われがちだけど、もしかしたら本当は、

自分自身との契約、なのかもしれません。

信じたい。でも、信じきれない。

その揺れに、誰よりも苦しんでいるのは、

きっと、自分自身なんです。

「相手を信じられない」って感じたとき。

それって本当は、

自分の心がまだ、揺れている証拠なのかもしれない。

その不安を、相手のせいにしないで、

制度のせいにも、社会のせいにもせずに、ただ静かに、自分の中をのぞいてみる。

「私は、なにを怖がっているんだろう?」

「なにが、まだ信じきれずにいるんだろう?」

契約という仕組みに、すべてを委ねるのではなく、

信じきれない自分を、自分の手で見つめてあげること。

それが、誰かと本当に向き合うための、最初の一歩になる。

そしてそのうえで、どう動くのか。

どう誓うのか。それはきっと、

“他人のせい”ではなく、

“自分の意志”で選んだものになる。

そう信じています。

損失回避の心理

人間って、「得をしたい」よりも、

「損をしたくない」っていう気持ちのほうが、強く働くんです。

これはただの性格じゃなくて、

もっと根深い、生き物としての本能なんだと思います。

危険を避ける。失うことを恐れる。

それは、ずっと昔から、命を守るために必要な感覚だった。

でも、その本能が過剰になると、

私たちは、「傷つかないこと」ばかりを選ぶようになる。

不安があるから、動かない。

疑いがあるから、近づかない。

……その結果、本当は手に入るはずだったものさえ、

自分で遠ざけてしまうこともある。

契約という仕組みを求めるのも、

この「損失回避」の本能が、

深いところで働いているからなのかもしれません。

人間は“本能”だけで生きてるわけじゃない。

たとえば「怖いけど、信じてみる」

そんな選択を、自分の意志で、

自分の足で、選ぶことができる。

本能に従うことも、自然なことだけど、

その仕組みを知ったうえで、あえて一歩踏み出す。

そのときに生まれるつながりは、

ほんの少しだけ、自由に近づいている気がします。

知らず知らずに契約書にサインしている我々

私たちは日々、

気づかないうちに、たくさんの“契約”にサインしています。

たとえば、アプリをインストールするとき。

「利用規約に同意します」って、

なんの疑いもなくチェックを入れる。

SNSを使うたびに、投稿、いいね、検索履歴──

そういったすべてが、何かと「引き換え」に差し出されている。

情報、好み、行動パターン……

つまり、私たちの“内側”は、

目に見えない契約によって、静かに搾取されているのかもしれません。

しかも──それはたいてい、対等な関係ではない。

片方は、仕組みをすべて理解していて、

データもルールも、すべて握っている。

もう片方は、ただ「便利だから」とサインしているだけ。

これはもう、契約というよりも、ある種支配に近いのかもしれません。

無意識のうちに受け入れてしまっている構造。

それが、私たちの生きる社会の、ひとつの姿でもあるんです。

お互いに誓うことはプレゼント

けれど

すべての契約が、人を縛りつけるものかといえば……

そうじゃないと思います。

お互いが対等で、誠実に、まっすぐに、

ひとつの約束を交わすとき。

そのとき、契約は「義務」ではなく、

プレゼントのようなものになる。

「信じてるよ」「一緒に、生きていこう」

「大丈夫、ここにいるから」

そういう言葉を交わすことは、強制じゃない。

見返りを求めるものでもない。

信頼を、目に見える形にする。

ただそれだけで、

その誓いは──

贈り物のように、胸に残る。

そしてときに、契約を超えて、

祈りのように、静かに心に響いてくるものかもしれません。

契約がない、約束でつながる世界。

契約がなくても、人はつながることができます。

それは子どもの頃の、

なんでもない日常の中で生まれた友情かもしれない。

あるいは、恋人と交わす、言葉にならない、

それでも確かに伝わる、暗黙の了解かもしれない。

もしかしたら、それは自分との対話。

静かに心の奥で、自分と交わす、約束かもしれません。

そこには、紙もない。印鑑もない。証明も、第三者の確認もいらない。

でも、そんな世界で交わされた約束は、

なぜか、とても誇らしくて、まっすぐで、 そして、すごくあたたかい。

形式なんていらない。

信じる気持ちだけでつながっているその関係が、

一番深くて、一番自由なのかもしれません。

誓った意味を大切に

人は、忘れる生き物です。

昨日の言葉を忘れ、数年前に自分と交わした誓いも、

いつの間にか、記憶の奥に沈んでいく。

でも、忘れてしまったからといって、

それを“なかったこと”にする必要なんて、ないんです。

思い出したときに、もう一度、抱きしめてみる。

もう一度、大事にしてみる。

それだけで、その誓いはまた、今の自分を照らす小さな灯りになる。

契約も、約束も、信頼も。

突き詰めれば

「自分は、どう在りたいのか」という、

たったひとつの意志のかたちなんだと思います。

だからこそ、

交わした“意味”を、もう一度、静かに思い出したい。

あの日、自分が、

何を願って、それを差し出したのか──。

……その記憶の奥に、

今のあなたを支える答えが、眠っているかもしれません。

さよなら、セカイ。

淺野 弘久
淺野 弘久
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