もしもAIの国会議員が誕生したら?

おはよう、セカイ。

──もしも、AIが「国会議員」になったら?

あなたは、どう思いますか?

信じがたい話に聞こえるかもしれません。
けれど、すでにその兆しは私たちの身近なところに現れています。

裁判所で判決を下すプログラム。
福祉制度の審査をするアルゴリズム。
都市計画や医療現場、軍事判断にも、静かに、そして確実に入り込んでいます。

そして今、次に向かっているのが──
「政治」かもしれません。

私たちの暮らしを形づくる法律を決める場に、
人間ではなく、AIが座る未来。

それは、果たして希望でしょうか。
それとも、静かな破滅の始まりなのでしょうか。

もしかすると、あなたはこう思っているかもしれません。

「人間の政治が、もう機能していないのではないか」
「だったら、AIに任せたほうがいいのでは?」

それは、危険な発想でしょうか。
それとも、率直な本音でしょうか。

この配信では、民主主義の原点から未来の可能性まで、
一つひとつ問い直していきます。

AIは、本当に政治を担うべき存在なのか。
そして私たちは、AIの導く未来に身を委ねていいのか。

民主主義の原点

さて──
AIと民主主義の関係を考えるには、
まず「民主主義とは何か」を見つめ直す必要があります。

その起源は、古代ギリシャ。
およそ2500年前、アテネの市民たちは、
国家のことをみんなで話し合い、みんなで決めようとしました。

「デーモクラティア」──
それは、「人民の力」という意味を持つ言葉です。

時が経ち、時代が移り変わっても、
この考え方は人類の大切な財産として受け継がれてきました。

国王や独裁者の支配ではなく、
誰もが自分の意見を持ち、選択する権利があるということ。

それは、私たちが当たり前のように思っている「自由」や「人権」の根っこにあるものです。

リンカーンのあの言葉──
「人民の、人民による、人民のための政治」。

それは、民主主義が目指した理想のかたちであり、
今もなお、私たちの社会の土台として息づいています。

独裁国家

しかし──
この世界には、民主主義だけが存在しているわけではありません。

もう一つの統治の形、それが「独裁」です。

独裁体制では、ひとりの指導者、あるいはごく少数の権力者たちが、国家の方針を決定します。
議論は最小限に、命令は即座に下され、実行される。

そのスピード感と統率力は、
民主主義が持ちえない“強さ”とも言えるかもしれません。

たとえば災害対応や経済危機のとき、
迷いなく舵を切れるその力は、ある種の安心感を生むこともあります。

……けれど、その代償は大きい。

そこでは、言論の自由が制限され、
反対意見は「ノイズ」として排除される。

選択肢は奪われ、
人々はただ「命令に従う者」として扱われることになる。

民主主義とは違い、そこに「参加」は求められないのです。

民主主義の強さと弱さ

民主主義の最大の強みは、なんといっても「多様性」と「対話のプロセス」です。

いろんな意見があって、それぞれの立場を持ち寄って、合意をつくっていく。

そこには、人間らしさがあります。
時間がかかっても、手間がかかっても、
誰かの声が置き去りにされないように──という配慮が、制度の根っこにある。

けれど、その「人間らしさ」は、時に弱さにもなってしまう。

物事の決定は遅れ、声の大きい意見が目立ち、
本質よりも「人気」や「感情」に流される。

ポピュリズム。
短期的な満足を優先し、長期的な視点は置き去りにされる。

合意形成に時間を費やしているあいだに、
時代はどんどん先に進んでしまう。

民主主義は素晴らしい。
でも、完璧ではない。
それは、制度というより、「人間」の姿そのものなのかもしれません。

議会の役割と限界

国会。
そこは、社会の課題に対して「法」というかたちで答えを出す場所です。

たとえば、医療制度をどうするのか。
教育、雇用、環境問題、AIの扱い……。

立法府と呼ばれるこの場所では、
議員たちが議論を重ねて、法律という形にしていく。

でも最近、こう思うことはありませんか?

「遅いな」とか「話がずれてるな」とか。

社会が直面している問題は、どんどん複雑になっているのに、
議会のスピードは、あまりにものんびりしている。

それもそのはず。
法律をつくるには、知識も、専門性も、調整力も必要で──
それを全部、”人間だけで”やろうとしている。

結果として、制度が時代に追いつかなくなる。

もしかすると、
人間がこの仕事を担うこと自体に、限界がきているのかもしれません。

人類の限界:立法という営み

法律って、何でしょうか。

一言で言えば、「未来に対するルールづくり」です。
今だけじゃない。
これからの社会で起こることを想定して、
人々がうまく共存できるように設計する。

でも──
その「未来」を、私たちは正確に予測できるのでしょうか。

たとえば、AIがここまで社会に入り込むことを、
10年前にどれだけの人が想像できていたでしょう。

気候変動、戦争、パンデミック、SNSの暴走、テクノロジーの暴走。

次に来る課題がどこから来るのか、
それすら読めないまま、
私たちは「とりあえずの法律」を重ねていきます。

しかもそこに加わるのが、
政治的な利害関係や、感情や、選挙の都合です。

「それっぽく聞こえる施策」
「人気が出そうな言葉」
──でも、本質には触れていない。

そういう法案が、
票を集めるためだけに作られてしまうこともある。

結果として、
社会の根っこにある問題は置き去りにされていく。

立法とは、未来への処方箋のはずだった。
でも今、それは「応急処置の繰り返し」になってはいないでしょうか。

そしてその限界は、
私たち”人間そのもの”の限界なのかもしれません。

AIの代替:議論なき合意

AIは、膨大なデータとシミュレーションをもとに、
短時間で“もっとも正しい”答えを導き出すことができます。
しかも、そこに私情や感情、しがらみといったものは一切ありません。
あるのは、純粋な目的合理性だけです。

もし、そんなAIが「国会議員」として議場に加わったら──?

人間たちの議論が行き詰まる中で、冷静かつ論理的に一つの方向性を示す存在になるかもしれません。
その振る舞いは、誰にも忖度せず、すべてを透明に記録し、矛盾のない言葉だけで組み立てられている。

それは、ある人にとっては「理想的なバランサー」のように映るでしょう。
しかし同時に、ある人には「不気味な侵入者」と映るかもしれません。

議会という“人間の営み”の中に、
まったく異質な存在が加わることで、
そこに起こるのは調和か、対立か──。

私たちはまだ、それを知らないのです。

民主主義によって選ばれたAI党の誕生

そして、ある年の選挙。
とある国で「AI党」と名乗る新しい政党が立ち上がります。

代表者は存在しない。
政策の立案も、議論の進行も、党内意思決定も、すべてがAIによって自律的に行われている。

党の公約は、科学的根拠に基づき、数値化された実行可能性と、影響予測のモデル付きで提示される。
人間の言葉よりも、数式と確率とシミュレーション。

それは、選挙というよりも、何かの「実験結果の発表」のようでした。

けれど──
人々の反応は、意外にも冷たくはありませんでした。

「こっちの方が信頼できるんじゃないか」
「人間の政治家よりも、嘘がない気がする」

そんな声が、少しずつ、少しずつ、広がっていったのです。

そして、AI党は──
人間たちの一票、一票によって、初めての議席を獲得します。

ルールを破ったわけではありません。
民主主義のルールに、きちんと則っていました。

そう、これは民主主義によって「選ばれたAI」なのです。

議決権を有したAIの議席獲得

AI党が獲得した議席には、当然ながら議決権が伴います。
そして国会の本会議に、初めてAIが「議員」として登壇する日がやってきます。

答弁は淡々としていて、どこにも感情の起伏がありません。
挑発にも乗らず、感動も示さず、誰かを非難することもない。

AIはただ、データをもとに、
最も合理的とされる結論を静かに提示するだけです。

その姿は──ある意味、美しいとも言えるかもしれません。
ミスもなく、ブレもなく、私情もない。

けれど、同時にこうも思うのです。

「これは本当に、人間の代表と言えるのか?」

AIには、家族もなければ、苦労の経験もない。
誰かの怒りや悲しみに心を動かすこともない。

そんな存在が、私たちの生活を左右する法律に、
“賛成”か“反対”かを投じることに、
違和感を覚える人も出てきます。

議論はやがて、
「AIの論理」と「人間の感情」──
そのどちらを政治に反映させるべきかという、根源的な問いにたどり着いていきます。

未来予想:AIによる国家運営のシナリオ

では、AIが本格的に国家運営に関与する未来とは、
いったいどんな姿をしているのでしょうか。

いくつかの可能性が考えられます。

楽観的未来。
AIが国の仕組みを最適化し、福祉、経済、医療、環境、すべての分野がスムーズに回りはじめる。
無駄な議論や争いは減り、国家は効率と安定の象徴となる。

悲観的未来。
最適化の名のもとに、少数の「正しさ」が全体を支配しはじめる。
人間の感情や揺らぎはノイズとして扱われ、マイノリティや異端は排除されていく。
機械が選ぶ幸福は、人間の幸福とは限らないのです。

そして、分岐する未来。
AIと人間が、役割を分担しながら共同で議会を構成する。
感情と論理、理想と現実、そのバランスを試行錯誤しながら模索する“ハイブリッドな政治”の形。

どの未来が訪れるのか──
それはまだ誰にも、わかりません。

まとめ──誰が国家を導くのか

民主主義とは、「人間による、人間のための政治」。
それが、私たちが長い歴史の中で築いてきた原則です。

けれど、皮肉なことに──
その「人間性」こそが、ときに制度を歪め、
合理性を曇らせてしまう。

感情、欲望、保身、人気取り、分断。
それらすべてが、人間らしさであり、同時に民主主義の“重さ”でもある。

では、もしAIが国家を導く未来がやってきたら?

それは、これまでにないスピードと合理性をもたらし、
私たちを救ってくれるのかもしれない。

でもその一方で、
その未来がもたらすのは、私たちが制御できない“何か”かもしれない。

AIがつくる法。
AIが選ぶ価値。
AIが描く社会。

それは、人間にとっての「幸福」なのか。
それとも──予測不能な災いの始まりなのか。

答えは、誰にもわかりません。
もしかしたら、それを判断できる人間は──

まだこの地上には、存在していないのかもしれません。

さよなら、セカイ。

淺野 弘久
淺野 弘久
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