僕たちは変わることなんてできない。

「だって努力できるのも才能じゃん」
  
       『3月のライオン』より

おはよう、セカイ。

本当の恐怖って、なんだろうか?

誰かに裏切られること?
病気になること?
孤独になること?
──それとも、自分が変わってしまうこと?

いや、もしかすると一番怖いのは、
変わりたいと思いながらも、ずっと変われないまま生きていくことなのかもしれない。

気づけばいつもと同じ道を歩いて、
同じように疲れて、同じようにやり過ごしてしまう毎日。
本気で変わりたい、抜け出したい、そう願っているのに──
気づくとまた、元の場所に戻っている。

そして、それを繰り返すうちに、
「自分はもう、こういう人間なんだろう」と、
ゆっくりと、静かにあきらめていったりする。

そんなふうにして、
変われないまま、時間だけが過ぎていく。
それって、じわじわと痛い。
だけど、あまりにも日常に溶け込んでいて、
“恐怖”として自覚されることは、あまりない。

ホメオスタシス──「恒常性」という言葉を手がかりに、
なぜ人間は変わることが難しいのか、
そして「本当の恐怖」とは何かについて、
少しずつ掘り下げていこうと思う。

ホメオスタシスという呪い

人間には、「変化を拒む力」があらかじめ組み込まれている。

ホメオスタシス
日本語では「恒常性」と訳されるこの仕組みは、
体温や血圧を一定に保つだけでなく、
行動や思考のパターンさえも“いつも通り”に戻そうとする。

つまり──
どんなに「変わりたい」と願っても、
脳と身体は「元に戻ろう」とする力学が働くのだ。

たとえば、ずっと貧乏だった人が急にお金を手にしても、
無意識に“貧乏人のふるまい”に引き戻されてしまう。
太っていた人がダイエットに成功しても、
気づけばまた昔の生活リズムに戻ってしまう。

これは意志が弱いからではない。
生き物として、ごく自然な反応なのだ。

ホメオスタシスは、言ってみれば「生き残るための仕組み」。
だからこそ、脳は“未知”や“非日常”を警戒し、
できるだけ安定した状態を保とうとする。

つまり、今の自分を保つことが正義であるという機能だ。

そして、たとえそれが不幸や不快であったとしても──
「慣れている」という理由だけで、そのままを選んでしまう。

この仕組みのやっかいなところは、
私たちがそれを“自分の選択”だと思い込んでしまうところにある。

実際は、脳と身体が勝手にそう決めているだけかもしれないのに。

自分を変えたいのに、変われないという葛藤

「変わりたい」と願う気持ちは、誰の中にもある。

もっと自由になりたい、自信を持ちたい、
もっと愛されたい、幸せになりたい。
それらは全部、まっとうな願いだ。

けれど、その願いの強さとは裏腹に、
私たちはなかなか変われない。

何かを始めようとしても、気がつけば先延ばしにしている。
新しい行動をしても、すぐに元のパターンに戻ってしまう。
一度は「これで変われる」と思ったはずなのに、
しばらく経つと、あの頃の情熱も、もう思い出せない。

その繰り返しに疲れて、
自分が情けなく思えたり、嫌いになったりする。

でも、これはとても自然なことだ。

「変わりたい」という願いは、
脳にとっては“危険信号”でもある。
ホメオスタシスが働いて、「それ以上行くな」とブレーキをかけてくる。

それに逆らおうとすると、
ストレスがたまり、不安が膨らみ、集中力も失われる。
まるで心と身体が、別々の方向を向いてしまうような感覚だ。

だからといって、変化を望むことが間違いというわけではない。
問題は、「変わる」ことそのものではなく、
“変わらなきゃいけない”という焦りや、“変われなかった”という自己否定にある。

何かが変わるには、やっぱり時間がかかる。
そして変化には、ある程度の「余白」や「回復のスペース」が必要なのだ。

けれど現代の社会は、それをあまりにも急かしてくる。

「3ヶ月で人生が変わる」
「7日間で自分を変える方法」
──そんな言葉に踊らされ、
変われなかった自分をまた責めてしまう。

だからこそ、このことを心に留めておいてほしい。

変われないのは、あなたのせいじゃない。
焦らなくていい。
自分を変えることは、苦しみながらやるものじゃない。
それは、もっと静かで、優しいプロセスでもあるはずだから。

恐怖とは“変わること”ではなく、“変われないこと”

変わるのが怖い。
そう口にする人は多い。

新しい環境、新しい人間関係、未知の自分。
たしかに、それらは不安を呼び起こす。
慣れた場所を離れること、これまでの自分を否定すること──
そう考えると、誰だって身構える。

でも、ほんとうに怖いのは、
「変わること」そのものじゃないのかもしれない。

怖いのは、
変わりたいと願いながらも、何も変わらないまま、
日々が静かに過ぎていくこと。

夢を見ても、行動に移せない。
言い訳をして、いつもの選択を繰り返す。
そうして一年が経ち、気づけば何も変わらない自分がそこにいる。

その繰り返しが、“小さな死”のように心を蝕んでいく。

誰かに裏切られたときより、
何かに失敗したときよりも、
「何もしなかった自分」を思い出すときのほうが、
ずっと重たい痛みを伴うことがある。

実際のところ、人生で人が変わるときというのは、
自分から何かを望んだときではなく、
外から強制的な変化を突きつけられたときのほうが多い。

事故、別れ、病気、退職、失恋。

本当の変化は、いつも“選べない何か”としてやってくる。

でも、その瞬間に「やるしかない」と思ったとき、
人は驚くほどのスピードで動き始める。

それができるのは、
心のどこかに、ずっと“変わりたかった”気持ちがあったから。

だからもし、今の自分がなんとなく停滞しているように感じたら──
それは「変わるチャンス」ではなく、
「変われないことへの恐怖」と出会う準備ができつつある、ということなのかもしれない。

人間は、生物的にロボットみたいなものだ

私たちは、自分を「自由な存在」だと思っている。
自分の意思で行動し、感情を選び、未来をつくっていると──
そう信じていたい。

けれど実際はどうだろう。

人間の脳は、思っている以上に“自動運転”されている。
毎朝の習慣、同じような思考パターン、口癖、感情の反応。
それらのほとんどが、無意識に動いている。

行動の9割以上は、意識の外で処理されていると言われることもある。
それはつまり、私たちが「自分で選んでいる」と思っていることの多くが、
実は、ただのパターンの繰り返しにすぎないということだ。

ホメオスタシスの働きによって、
“昨日と同じ自分”を保とうとするのが、生物としての基本仕様。

だからある意味、人間は“生物的ロボット”に近いのかもしれない。

そのロボットは、これまでの記憶や環境の中で最適化された
「いつも通り」を繰り返すように設計されている。

そんな状態で、「もっと自分らしく生きたい」と願っても、
そもそも“自分らしさ”って何だろう?と考え込んでしまう。

自分らしさすら、環境と習慣によって形づくられているとしたら──
私たちが信じてきた「自由意志」は、どれほど自由なのだろう。

もちろん、それは絶望するための話ではない。

むしろ、それを知ることで、
「人と違うことをしなきゃ」
「もっと個性を出さなきゃ」
そんな焦りから少し自由になれるかもしれない。

他人と違う行動ができなくても、
特別じゃない人生しか送れなくても、
それは“あたりまえ”のことなんだと。

私たちは、すでに組み込まれたものの上に立っている。
それでもほんの少しだけ、意識を向けることはできる。

自分の行動、自分の選択、自分のクセに。

そこに“わずかな自由”があるとしたら、
それは、自動的な流れに気づいたとき、
ほんの少しだけ生まれる「間」なのかもしれない。

本当の恐怖に向き合った時、人は変わる

人は、自分の意志で変わることもある。
けれど、ほとんどの場合、
人が大きく変わるときというのは「何かが起きたあと」だ。

たとえば、信じていた人に裏切られたとき。
突然、病気を告げられたとき。
大切な人を失ったとき。
どうしても受け入れられない現実に直面したとき。

そういう瞬間に、人は変わらざるを得なくなる。
変わりたくない、でも変わらなきゃ生きていけない。
そんなとき、人は一気に“別の自分”を選び取ることがある。

それは、成長とか、前向きとか、そういう綺麗なものではない。
もっと生々しくて、むき出しで、切実で、
「やるしかない」という一点だけで動き始めるような、そんな変化だ。

そしてそのとき、人は驚くほど強くなったりもする。

普段の自分なら絶対にやらないことを、
迷いもなく始めたりする。
「どうでもいい」と思っていたものに執着したり、
逆に、大事だと思っていたことをあっさり手放したりもする。

それは“本当の恐怖”に触れたことで、
これまでのホメオスタシスが一瞬で崩れ去った状態とも言える。

この変化は、たしかに力を持っている。
でも、できればそんな形でしか変われないというのは、
少し寂しい気もする。

だからこそ、本当の恐怖に出会う前に、
少しだけ自分を見つめ直してみてほしい。

変わることは難しい。
でも、変われなかった自分を責める前に、
「まだ変わっていないだけ」と言ってあげてほしい。

人は、変わることができる。
けれどそれは、何かを捨てることでもある。
だからこそ、そのときは、
どうか“自分に優しくあること”を忘れないでほしい。

“恐れ”とも進む

人は誰しも「変わりたい」と思う瞬間がある。
もっと優しくなりたい、自信を持ちたい、夢に向かって進みたい……
けれどその一方で、変化には痛みが伴い、怖さがついてまわる。

現状に居座ることは、楽だ。
いつもの日常、いつもの思考、いつもの選択肢。
それは自分の「型」のように身体に馴染んでいて、
無理に変えようとするたびに、心が拒否反応を起こす。

でも──
もし本当に怖れるべきものがあるとしたら、
それは「変われないこと」ではなく、
「変われないまま終わってしまうこと」かもしれない。

心のどこかで本当は知っている。
いまの自分のままでは届かないことがあることを。
いつかは動き出さなければならないことを。
それでも、怖くて動けない。
だから、今日もまた同じ日が始まる。

だけど、それでいいのか?と、ふと思う。

怖いのは当たり前だ。
変わることは、生まれ変わるようなものだから。
だからこそ、変われなかった昨日を責めるのではなく、
ほんの少しだけ、今日の自分の背中を押してやってほしい。

別に大きく変わる必要はない。
小さな一歩、小さなズレ、小さな違和感に、
少しだけ目を向けてみるだけでいい。

その積み重ねの先に、
もしかしたら“本当の自分”が待っているかもしれない。

僕らは変わることなんかできない。簡単には。

変化を恐れずに。ともいうが、
恐れてもいいから、それでも進むこと。
それが、人間にとっての「生きる」なのだと、信じたい。

さよなら、セカイ。

淺野 弘久
淺野 弘久
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