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おはよう、セカイ。
気がつけば、いつの時代からか
私たちの生活は「効率」に囲まれるようになりました。
ワンクリックで注文でき、
スマートスピーカーに話しかければ、明日の天気さえ答えてくれます。
なんて便利な世の中になったのでしょう。
「昔の時代に戻りたいか?」と問われたら、私は胸を張って No!! と答えるでしょう。
何なら、ふざけるな!とさえ思ってしまいそうです。
余計な手間を省き、最短ルートで目的地に辿り着く。
それこそが正義のように思えるからです。
実際、私自身も効率に囲まれた世界が大好きです。
無駄なことがあれば、すぐ改善できないかと考えてしまうし、
電車に乗るときは時刻表をにらんで、分単位で動こうとしてしまいます。
「やっぱり効率こそ正義!」
そんなふうに思っていました。
でも、本当にそうなのでしょうか。
ある日のこと。
いつも通り、運動習慣のため散歩をしている時、
疲れてベンチに腰掛けたことがありました。
ふぅと息をつくと、目の前に満月が綺麗に出ていたことに気がつきました。
効率だけを追い求めて、いつものように考え事をしていたら、
出会わなかった景色だったかもしれません。
誰かとすれ違い、考え込み、遠回りしてようやく辿り着く場所には、
思いがけない発見や、小さな感動があったりします。
確かに最短距離を選ぶことは、人生の時間を増やしてくれるかもしれません。
しかしその考え方は、私たちの「感じる時間」や「考える余白」を、
知らぬ間に削り取ってはいないでしょうか。
合理的であることが優先される社会では、
感情の曖昧さや、出会いの偶然さえもが
「効率化という正しさ」の中に押し込められてしまう。
けれど――私たちは本当に、
そこまで効率化されたセカイを望んでいたのでしょうか。
今回は「効率化」をテーマに、
少し思考を掘り下げて探究してみたいと思います。
人の一日には、目に見えない “隙間時間” があります。
たとえば、バスを待つ5分。お風呂の湯が沸くまでの3分。
誰かからの返信をじっと待つ、ほんの少しの間。
その余白の時間に、私たちは何をしてきたでしょうか。
ただただぼーっとしてみたり、
ぼんやりと空を見上げたり、道行く人を眺めたり、
あるいは、ただ考えごとに沈み込んでいたかもしれません。
一見すると無駄に見えるそれらは、
実は「感じる時間」として、かけがえのない時間だったのではないでしょうか。
しかし現代はどうでしょう。
わずかな隙間が生まれるやいなや、私たちはスマホを取り出し、
誰かの情報をインプットしようとする。
私自身、少しの時間があれば YouTube を開き、
動画を立て続けに見てしまうなんてことがしょっちゅうあります。
だって、面白いですもん。Yotube。
もはやYoutuberは素人ではないとも、思う今日この頃です。
その楽しさとは引き換えに、
通知は絶え間なく届き、空白の時間は即座に埋め尽くされる。
タイパ、コスパ──あらゆる時間が圧縮されていき、
「余白」という存在そのものが、居場所を失いつつある。
そう言っても過言ではありません。
けれど、思い出してみてください。
何かを解決するアイデアは余白から生まれ、自分の真の課題も隙間から生まれます。
誰かを想う気持ちも、一瞬の処理ではなく、
積もりゆく時間の中で静かに育っていくものかもしれません。
効率だけで設計された生活は、たしかに滑らかで便利です。
ときには満足感すら与えてくれる。
しかしその一方で、“人間らしいムダ” が削ぎ落とされていく。
本を途中で閉じて余韻に浸ること。
行き先を決めずに歩き、偶然の風景に出会うこと。
「やることがない」と感じる時間の中にこそ、
人は心の豊かさを感じていたのではないかとも思います。
今、私たちが失いかけているのは──
そうした「余白の感性」なのかもしれないと。
そう思うのです。
効率化とは、本来「自由」を得るための道具だったはずです。
時間を節約し、その分を自分の好きなことに充てる。
できるだけ嫌な労働を短くするために、
私たちは家電を買い、便利なアプリを導入し、
ショートカットキーまでも必死に覚えてきました。
けれど、いつの間にかおかしな方向へ進んでしまった気がします。
私個人の性格ということは差し引いても、
空いたはずの時間に、さらに新しいタスクを詰め込み、
予定表がぎっしり埋まっている。
そしてそれこそが「人生の充実感だ」と満面の笑みで声高々にのたまっている。
私自身も、時間があれば本を読み、動画を見てインプット。
「ためになることをしなきゃ」と焦り、
まるで隙間時間は勿体無いと思って過ごしていました。
振り返れば、それは一種の狂気のようでもあります。
メールの返信が早ければ「できる人」、
無駄話をしなければ「信頼できる人」。
感情に迷う時間さえ「非効率」とされる。
そんな価値観に縛られ、私たちはいつの間にか、
自分をロボットのように律し、
分単位で管理するような毎日。
さて、ここで疑問に立ち返ります。
現代の効率化は本当に「自由」を与えてくれているのでしょうか。
それとも、ただ「満足感」という幻想を追いかけるための手段に
すり替わってしまったのでしょうか。
もちろん、効率化がそのものが悪いわけではありません。
それによって救われる瞬間も、たしかにあります。
でももし──その効率化が「本当にやりたいこと」から
私たちを遠ざけているとしたら?
今改めて、考え直すべきことは、
自分が追い求めている効率が、
果たして「自由」への近道なのか。
それとも、ただの「自己満足」を満たすための手段なのか。
ということなのではないでしょうか。
タスクを終えると、ほんの少しの快感が走ります。
チェックリストに「✓」を入れるたび、脳が小さな報酬をくれる。
──やっほーう!今日もタスクを完遂した!いや充実充実!
けれど、その高揚感は長くは続かないことが多く、
ページをめくれば、そこには次のToDo、そしてまた次のToDo。
「もっと早く」「もっと短く」「もっと楽に」──。
世の中は“効率化の魔法”で溢れている。
ショートカット、タイムマネジメント、AIツール、ルーティン術。
全部使いこなせば、きっと無敵になれるはずだ。
私自身、そんな“無敵の人間”を目指していました。
でも、なぜか心は軽くなるどころか、
むしろ疲弊していきました。
効率よく仕事を片付けても、
残った時間にまた新しいことを詰め込んでしまう。
空いた時間は、自由のための贈り物ではなく、
「空白」そのものが怖くて、埋めなければ落ち着かない。
なぜか、なぜだか、余白の時間がとても怖い。
その結果、気づけば私たちは、
効率化の果てに“燃え尽き症候群”を抱え始めているのかもしれません。
一日を振り返っても、「何かやったはずなのに覚えていない」。
そんなことは、ザラにあります。
効率化はたしかに便利さを与えてくれる。
けれど同時に、私たちから「感じる余白」を
少しずつ奪い取っていたりします。
本当に問うべきなのは──
空いた時間を何で埋めるか、ではなく、
その時間をどう「感じる」か。
そこに、私たちの人間らしさがあるのかもしれないと気づき始めました。
「それって、意味あるの?」
誰かのそんな一言で、
たった今楽しんでいたことが、急にちっぽけに感じられる瞬間があります。
意味があることだけが価値を持ち、
効率的であることが正しいとされる現代社会では、
「無駄」はもはや居場所を失いつつあります。
でも、無駄は無意味を意味するのでしょうか?
ふらっと寄り道をした公園で、夕焼けに見とれた時間。
ただ眺めていた空。
落書きみたいなメモ帳の端。
なんの役にも立たない冗談。
そうした“非効率の断片”が、
私たちの心をふと和らげてくれたこともあります。
無駄は、無意味とは違う。
今ではそう思えます。
それは、意味や成果で測れない領域で、
私たちに「人間らしさ」を取り戻させてくれるのかもしれない。
効率一辺倒の世界に漂う、どこか味気ない空気。
その中でほんの少し、無駄に足を止め、非効率に揺れてみる。
きっとそこに、意外な豊かさや温かさが潜んでいる。
急がない。詰め込まない。
結果を急がず、余白を受け入れる。
そんな態度が、いつしか生き方そのものを支えてくれる。
そんな気がしています。
効率が悪いと、どこか「劣っている」と見なされる現代社会。
遅い、要領が悪い、仕事ができない──
自分も新入社員の時代に、仕事が遅いと怒られたこともあります。
そんなレッテルを貼られる前に、自分から“優秀”であろうと演じてしまう。
でも、そもそも、なぜ私たちはここまで効率を求めるのでしょうか。
その背景に一つの答えを提示するとすると
たぶん「不安」なんじゃないだろうかと思います。
周囲に置いていかれること、競争に負けること、
誰かに“ダメだ”と評価されること。
過去の自分に負けたと思うこと。
効率的な人=できる人。
そんな言葉が無意識に刷り込まれ、
私たちは自分の価値を“成果の速さ”で測るようになっていく。
気づけば、心のどこかで「ゆっくりしている自分」を許せなくなる。
街ゆく足取りはどんどん速さを増していく。
“早く、正しく、効率的に”。
この魔法の呪文の裏側にある、
「社会に置いていかれる恐怖」という見えない敵を、
そろそろ自分の世界から抹消してもいいのかもしれない。
そんな風に考えるのです。
授業中、話が脱線して、気づけば全然違う話題になっていた──
そんなことがしょっちゅうありました。
そんな雑談の中にこそ、ずっと心に残る事柄が生まれたりする。
目的もなく立ち寄った本屋で、
ふと手に取った一冊に救われた経験。
あるいは、帰り道で足を止めて見上げた空の色が、
妙に綺麗に感じられたり。
そういった出来事は、
どれも「効率」を重視していたわけではありません。
むしろ、時間をかけたからこそ、
偶然だからこそ、価値が生まれた瞬間だったのでしょう。
人とのつながりもまた、非効率な営みです。
予定調和ではないやりとりの中に、
笑いや誤解、驚きや気づきがある。
すべてが最適化され、計画通りに進む関係には、
「余白の愛しさ」が入り込む隙がない。
そもそも私たちの人生は、非効率の連続で
遠回りして転び、迷いながら少しずつ前に進むということ。
その歩みの中で出会った風景や人の言葉が、心の奥に根を張っていく。
もしかすると、
非効率とは「遠回りのように見える近道」だったのかもしれません。
成果や生産性では測れない、けれど確かに胸が温かくなる瞬間。
それは「正しさ」よりも、「確かさ」があるように感じます。
無駄に見えるものを、すぐに切り捨てないこと。
雑音のようなやりとりを、ただ煩わしいと決めつけないこと。
非効率であることを、恐れないでいい。
その中にこそ、豊かさは、そっと息をしているのだから。
効率化は、効率化で素晴らしい。
だけど──それだけで生きていくことは、どこか寂しい。
効率ばかりを追いかけていると、
気づかぬうちに、「感じる力」が鈍っていく。
早くできた。楽にできた。正確だった。
──でも、それは本当に「生きている」感覚とイコールでしょうか。
きっと大事なのは、効率的かどうかじゃなく、
それが、自分にとって「血が通った時間」だったかどうか。
今日という日を、どれくらい味わえたか。
合理性や効率性を否定するつもりはありません。
でも、それに飲み込まれてしまったとき、
人はきっと、「何も感じなくなった自分」に出会ってしまう。
だからこそ、最後にこう問いかけてみたい。
最後に「自分の感覚を研ぎ澄ませた瞬間」は、いつだったのかと?
それが、生き方の指針を示してくれるような気がしてならない。
さよなら、セカイ。
今回参考にした本はこちらです。
気になった方はぜひ読んでみてください!